香港「逃亡犯条例」改正、状況緊迫の背景から中国の思惑、経済的影響まで

Teddy Hung / Shutterstock.com

6月15日、香港政府は、林鄭月娥(キャリー・ラム)香港行政長官が緊急記者会見を開き、立法会に提案した「逃亡犯条例」改正案の審議を無期限に延期すると発表しました。これまで、頑なに法案審議を推し進める姿勢を貫いてきた行政長官でしたが、世論の反対が大きいことが明らかとなり、方針転換せざるを得なくなりました。

「逃亡犯条例」改正案を提案した段階では、林鄭行政長官も香港政府も、同案に対する世論の反発がこれほど大きいとは予想できていなかったのでしょう。6月9日の抗議デモは、主催者発表で103万人(警察側は24万人と発表)が参加する前例のない大規模なものでした。にも関わらず、香港政府は審議を継続しようとし、条例案の可決を急がせようとしました。それが12日の抗議デモ発生と、デモ隊と警官隊が衝突するという事態の悪化に繋がりました。

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なぜ抗議行動が拡大したのか

「逃亡犯条例」改正案は、昨年のある事件がきっかけと言われています。香港人男性が恋人と台湾を旅行中に、この女性を殺害し、逮捕される前に台湾を抜け出し香港に戻ったという事件がそれです。

その際、香港政府は台湾との間で犯罪者引渡しに関する協定を結んでいないことから、この男の身柄を台湾に移送し引き渡すことができなかったのです。林鄭行政長官は、「逃亡犯条例」案を提案した理由としてこの事件を挙げ、「法の抜け穴をふさぐため」に必要な措置なのだと説明しました。

しかし、この「逃亡犯条例」改正案は、犯罪容疑者を香港から中国本土に引渡すことを可能にするものでもあります。香港に住み働く人、旅行者や出張者、トランジットのため空港に降り立つだけの人も含め、香港で身柄を拘束されると「犯罪容疑」を理由に、中国本土に引き渡される可能性を否定できません。

香港では、中国政府に批判的な内容の書籍を取り扱っていた書店主が香港から忽然と姿を消し、中国本土で発見されたという奇怪な事件も過去にあり、中国政府に目をつけられると拉致されるという身の危険がまことしやかに語られます。

「逃亡犯条例」改正案が成立してしまえば、軽微な犯罪や疑いだけでも香港警察に身柄を拘束され、中国本土に引き渡されて裁判にかけられるということが公然とできるようになってしまうと、香港の人々が懸念するのも無理もないことです。

「逃亡犯条例」改正案に反対する人々の輪は広がり、抗議行動としてデモが一気に拡大しました。デモの参加者が2カ月以上もの間、香港中心部の幹線道路を封鎖した2014年の「雨傘運動」も記憶に新しいのですが、今回の抗議デモは、2003年に立法会に提案され最終的には撤回された「国家安全条例」案に反対して起きた抗議デモ以来、香港では最大の規模だったと推定されます。

参加者には学生など若者も多い一方、子供を持つ母親たちや中間所得層までもがデモに加わって反対の声を上げました。「雨傘運動」の時は普通選挙権や香港の自治など政治問題が理由だったため、抗議デモに参加することに消極的だった人も多かったのですが、今回のデモにはそうした人たちまでが参加しているのは、「逃亡犯条例」改正案への懸念が生活権や人権そのものに関わるからでしょう。

抗議デモは、9日に続いて12日も香港島側の香港立法会がある金鐘(アドミラルティ)付近で大規模に行われ、立法会は休会を余儀なくされました。14日には、行政長官の諮問機関である行政会議幹部の陳智思氏が「審議続行は不可能」と断言するなど、審議再開に疑問を呈する声が民主派以外の複数の議員からも上がりました。

14日夜には、林鄭行政長官が中国政府の香港担当である韓正副首相と深センで協議して、中国政府の了解を取り付けた模様です。そして、15日午後、香港政府は審議延期を発表するに至りました。

中国政府の態度とその思惑

今回の問題では、一貫して香港政府・行政長官への支持を表明してきた中国政府でしたが、外国メディアの報道に対して過剰で偏った報道だとの反駁はするものの、採決を強行しろというほどこの条例案に執心しているようには見えません。中国政府は、抗議デモの長期化により外国からの内政干渉めいた圧力が続くことや、万が一デモ隊と警察が衝突した場合の「第二の天安門」のような事態は、なんとしても回避したかったようです。

非武装の抗議デモを力でねじ伏せてでも成立させたいほど政治的に意味のある条例改訂かというと、そうとは言えないでしょう。しかも、苦心してつくりあげてきた「一国二制度」と、共産主義経済と自由主義経済の間で微妙なバランスを取りながら成功を収めてきた香港の発展を阻害することの方が中国政府にとって打撃が大きいことは、中国も良く理解していると思われます。

加えて、米中貿易摩擦が関税合戦へとエスカレートする中で、米中首脳会談を目前に控えて、米国に中国への攻撃材料を与えたくなかったということもあるでしょう。また、20カ国・地域首脳会議(G20)を控えた時期に国際社会の関心を引くより、今回の問題を早期に収束させたいとの思惑が働いて延期の判断を許容したのだと思います。

さらに、選挙が視野に入ってきた台湾の総統選への影響も懸念したと推測されます。今回の抗議デモの大規模化については、台湾人の間でも懸念が広がっていきました。中国政府が香港に対してどう向き合うかは、台湾統一をどう進めるかを予想する手掛かりと考える台湾人は多いのです。

力で抗議デモを鎮圧すれば、やがて台湾を武力でねじ伏せかねないという懸念が、台湾人の間で広がっていくでしょう。そうなれば次期総統選で、支持率が低下している蔡総統を利するだけです。中台統一という目標を考えれば、これはプラスにはなりません。

もちろん、これまで「改正支持」を明言してきた中国側にとって、大規模デモによって示された反対の世論に譲歩せざるを得なかったと見なされることは、共産党統治の敗北と受け取られかねません。劉暁明・駐英中国大使は英BBC放送に対し「中国側から改正を指示したことは一度もない」と発言するなど、「(改正案の審議は)香港政府が進めたこと」だと、中国政府の関与を否定しました。

審議の延期が発表されましたが、反対派は審議の延期では納得はしていません。あくまでも、廃案を求めて抗議を続ける意向です。16日にも大規模な抗議デモを呼びかけ、参加者は9日のデモの「103万人」(警察発表は24万人)からほぼ倍増し、「200万人近く」(同33.8万人)に達するデモが実施されたようです。政府側には、永遠に延期だとの一部発言もあるようですが、面子の問題もあり、直ぐには廃案とは言いにくいのも実情です。

廃案を求める反対派と政府との溝は埋まっておらず、事態は鎮静化したとは言えません。筆者は、改正案を棚上げまたは永遠に延期するなど実質的な廃案扱いとするか、提案理由である外国での重刑法犯に限定するなど、毒抜きして反対派が受け入れられる形にするくらいしか収まりがつかないと考えています。

ただ、16日のデモを見る限り、政府が折れたことで反対派が勢いづいている感はあります。反対という意味では一つにまとまれましたが、香港政府と折り合いをつける以上に、彼らが過激な行動に出るなどして事態がエスカレートした場合は、暴力的な衝突が起こるなど最悪のシナリオとなる可能性もあります。

香港政府にとっても、対応を誤れば、2003年のように現職行政長官の首と引き換えに幕引きを図るというシナリオが浮上するかもしれません。まだ、予断を許さない状況が続くでしょう。

突き付けられた「香港経済」の課題

経済的には、今回の問題は香港経済の課題も浮き彫りにしました。香港は世界でもトップクラスの自由貿易港で、すべての品目が関税がかかることなく輸入できます(ただし、酒、たばこ、炭化水素油、メチルアルコールには、物品税が課税される)。

1992年には米国も、「香港政策法」という法律を制定して、香港を中国本土とは異なる地域として定義しました。これにより、香港は米国の自由貿易の相手先として、貿易及び輸出規制に関する事項、関税やビザなどで中国とは別扱いされるという恩恵を受けてきました。同法は米国の香港に対する基本法で、いわゆるトランプ関税の適用もされていません。

しかし、米国では、この別扱いに疑問を呈する動きが出てきました。米議会の超党派諮問機関である米中経済安全保障再考委員会(USCC)は5月に報告書を発表し、「逃亡犯条例」の改正案がこのまま成立した場合には、香港の自治が損なわれ、中国の一都市に過ぎないと見なして、香港に認めている恩恵待遇の打ち切りや安全保障上重要と考えられるテクノロジー関連製品の取引を締め付けるなど、香港政策法を撤廃する方向に動くことを提言しました。

そして今月9日の抗議デモの後には、ナンシー・ペロシ下院議長(米民主党)が、同法の廃止などの可能性にはっきりと言及したのです。香港に対する政策が大幅に見直されれば、自由貿易港として発展してきた香港の通商や金融市場は大きな打撃を受けることになるでしょう。香港の経済界にも、そうした懸念が広がり始めています。また、香港企業の扱いも、中国企業への対応が厳しくなっていることと同様に、より冷淡なものになっていく可能性が高まっています。

米国に限らず、香港に関しては一定の権益と関心を持っている英国や欧州連合(EU)なども、香港との関係見直しに動く可能性を否定できません。そうなれば香港経済への影響は大きく、香港の通商・金融機能を強化しようと行動してきた中国にとっても大きな損失となるでしょう。

また、香港経済に打撃が及べば、香港ドルを米ドルにリンクさせる「米ドルペッグ制(1米ドル=7.80香港ドルを中心値として、為替レートを7.75〜7.85香港ドルの変動許容範囲内に維持)」にも、香港ドルへの売り圧力として重くのしかかるでしょう。香港は、米ドルリンクであるがゆえに、世界でも高度に金融市場が発達し、世界の三大市場に上りつめました。しかし、その足場が揺るぐ事態になれば、香港経済や金融市場としての香港の魅力が脅かされるでしょう。

昨年来、米ドル金利の先高感が強まり、人民元も売り圧力に晒される中、香港ドルはペッグ制のバンドの下限1米ドル=7.85香港ドルに張り付き、香港金融管理局が必死に為替介入を重ねるなどして維持してきました。今年に入り、米ドル金利の低下が顕著となり、香港ドルへの売り圧力は一時、薄らいだかに見えましたが、ここへ来て、また売り圧力に晒されています。

香港政策法の撤廃など、米国が対香港政策を変えてきたとき、香港経済への負の影響は避けられず、香港ドルにも試練の時が来るでしょう。最悪のシナリオですが、その場合には、香港の経済的な発展とともに成長してきた金融都市としての機能にも異変が起こる可能性が懸念されます。

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長谷川 建一
  • 長谷川 建一
  • ニッポン・ウェルス・リミテッド・リストリクティド・ライセンス・バンク
  • 取締役兼CIO (Chief Investment Officer)

京都大学卒、MBA(神戸大学)。 シティバンクグループ日本及びニューヨーク本店にて資金証券部門の要職を歴任後、2000年にシティバンク日本のリテール部門で商品開発や市場営業部門のヘッドに就任。2002年にシティグループ・プライベートバンクのマーケティング部門ヘッドに就任。
2004年末、東京三菱銀行(現三菱東京UFJ銀行)に移り、リテール部門マーケティング責任者として活躍。2009年からは国際部門でアジア・リテール戦略を担い、2010年は香港にてBTMUウエルスマネージメント事業の立ち上げに従事。
2013年よりNippon Wealth Limited, a Restricted Licence Bank(ニッポン・ウェルス・リミテッド・リストリクティド・ライセンス・バンク)にてCOOに就き、2017年3月よりCIOを務める。